ある日の夕方

コーヒーを飲む量が異常に増えた。飲みすぎると体によくないというのはわかっているのについつい飲んでしまう。家・ファミレス・カフェ.・自販機・・・・あらゆるところで飲みまくった。特に浦和のデニーズだ。コーヒーは砂糖を入れないのが大人の味だなんていうけれども、僕には全くそんなことはわからないから、砂糖をドサッと流し込み、ミルクのパックを「パチッ」という音と共に空けてこれまた勢い良く流し込む。この時の気持ちよさといったらこの上ないものである。カフェイン様のおかげで、テスト前日は本当に一時間半〜三時間ぐらいの睡眠で耐えられた。朝目覚めた時の頭のやけに重い絶望感と、気がつくと心臓が物凄い勢いでドックンドックン唸る感覚と、自分からは吐きそうはないのだけれども誰かが吐いている姿を見たら自分も一緒に吐いてしまいそうな感覚と、試験前の思い出せなかったらどうしようという手に汗握るような感覚と、数えたらキリがないくらい気持ち悪い感覚を味わうのがテストなんだと思った。自分はやっぱり創作感覚とかそういったものに特化できないから、科学的なことをひたすら詰め込んでしまっているのかもしれない。でも、こうした作業的な『勉強』も科学者としての側面を作るためには一部仕方ないのかとも思う。もう少し上手く消化できるようになったら自分は嬉しい限りなのだけれども。


こうして僕はまたコーヒーを飲む。


同学年の人はもうほとんどとっくに春休み。僕らは何を間違ったか高校生よりも春休みや夏休みが短くなってしまった。しかし、僕はまだ大学生活のうち、やっと半分に差し掛かった所であってシュウカツとかそういうもんがないものだから、なんとなく友人の話などを聴いていると無性に寂しくなってしまうこともある。今より、来年の今頃の方が本当に離れてしまっている感じがして、もっと寂しくなってしまうのだろうか。きっとそうなんだろうな。そういえば、寂しいという言葉、久しぶりに字体として表現した気がする。感覚を文字にすると、その感覚が文字になる、昔の汚いノートに書き綴った日記を見て、恥ずかしそうに僕は一人で笑った。そんなさっきの光景を思い出してまた笑った。


正直大学の教育は、教える方も何をどう教えていいか、分かっていないだろう。専門分野で、量が膨大で、それを体系的に教えるシステムを考え出すのは容易じゃないとは当然思う。量が膨大にあって、テストはそこから限られた量しか出せないのだから出す方も、本当に苦労しているんだろうなー。授業に出る意味も今では重大ではなくなった。僕の頭に残っているのは「様々な人の授業を受けて、その中で、この人に会えて良かった、出会って良かったという人に会えればいいし、そういう出会いを大切にして欲しい」という言葉だった。本当に世の中知らかったり、知れなかったりなことばかりで心から嬉しく思う。とにかくテストは早く追試なく終わるといいな。