上田紀行「がんばれ仏教!〜お寺ルネサンスの時代〜」




人間の習慣の大部分は、その土地などの風習などに沿ったものが占めるとのようなことをトルストイは言っていたけれども、お葬式やお墓参りを行うことに対する疑問は僕の中で確かなものであった。祖母や祖父が亡くなってしまってお葬式が行われていたが、「お葬式」というあくまで形式で気持ち的な区切りをつけるという意味は見出せたのだけれども、それが「お葬式」である必要があるのか。他に儀式的なものを自分達で考えれば、あまりお寺に行く必要はないのではないか、高額なお金を払って戒名をする意味はなんなのか、そのような疑問を持っているのは僕だけではないはずだ。このような情報の不透明性、暗黙の了解、いわゆるブラックボックス的構図は、医者と患者のパターナリズムに非常に類似しているように思える。


今日の宗教は新興宗教ばかりが目立ち、僕は「宗教」という枠組みに対して疑いの眼差しを持ってしまっている。そんな中、現実のお寺に眼を向けてみると行われているのは「お葬式」のようなものだけというイメージが非常に強い。(僕が昨年体験した‘座禅'は非常に得るものがあったが。)そのように「葬式仏教」と呼ばれる現代の仏教の現状をしっかりと見つめ、仏教の可能性を6人の僧侶の話を通して探る、そんな本がこの本である。


この本に書かれている疑問はまさに誰もが感じている疑問だろうし、それをしっかりと受けてとめて分析しているので非常にわかりやすい。生き生きと様々な活動を行う僧侶、こんな御坊さんがいると思うと仏教に期待せずにはいられなくなるだろう。他者との関係性を大事にし、出会いを大切にし、自分自身との関係性を作り出し「縁起を生きる」彼らの姿は、人間的魅力にも溢れ、人をひきつけることがこの本だけで伝わってくる。ただ、仏教の教えを自分がもう全て知ってるかのように振舞う人たちとは異なり、自分の出会い・体験などから自分自身を問い、そこから行動を起こしてきた彼らこそが現代に必要とされる<ホトケ>であることに間違いないだろう。


著者は言う『私たちはむしろ「苦悩」に直面し、その意味を深く探り出すときに、他者との交換不可能な「かけがえのなさ」を見出すのだ。』と。これは岡本太郎「自分の中に毒をもて」を思い出させ、苦悩こそが自分を見つめなおす機会であり、自分を輝かす機会ということはやはり人生において大きな意味をもつものだと再確認した。


また、『「正しい教え」をさもありがたいだろうと、押し付けがましく言うことに慣れきってしまっていて、微細なコミュニケーションの感性を失ってしまっているのかもしれない。それらは、おそらく自分がその状況に直面して、自分で超えてきた体験がないからだろう。だから、誰かから教えられた公式的な「正しい答え」を復唱することしかできないのだ。・・・・(中略)説く前にきっちりと聴いてくれ、それが時代の要求なのである。・・・しかし本質的なのは聴く方法ではない。むしろ僧侶自身が自分自身の「問い」に、「苦悩」に向き合っているかが問われるのだ。』とも述べている。これは、医療者となる自分にとっても非常に心が痛い言葉である。体験を通じた苦悩、そこから人生と正しいと言われる教えの関係性を結びつけることで、初めて人生の上で「意味」となる。これはまさに人生を生きる上で重要だと思う。


情報公開などのブラックボックス人間性などの面を見ると、仏教と医療というものは非常に関係性のある部分を感じる。医療も仏教も時代の変化によって段々と誤魔化しが聞かなくなってきたということはもちろんそうだが、それ以上に自己を問いただし、何かを見つけ「縁起を生きる」僧侶としての人間性は医者においての、欠落したイメージ部分の人間性を埋めているように思えるのだ。現実の僧侶にどんな人たちがたくさんいるのかということを僕はあまり知らないから、この本を読んで僧侶たちがどのように思うかは知れない。けれども単純に「縁起を生きる」僧侶が増えていくことは素晴らしいと思う。けれども、実際に著者の思惑通りにまんまと仏教に期待する。「ボーズ・ビー・アンビシャス!!」