夕力ノリと書いて何と読む

山塚EYヨの最後の文字は一体何か非常に気になっていたのだが、よく見るとそれが単なる『ヨ』の半角カタカナだったことにさっき気がついて僕は非常に嬉しかった。しかし、それでも僕の下の名前を『タカノリ』から『夕カノリ』にしたところで、どことなくかっこよさを帯びるわけではなかったので愕然とした。同じような名前のカリスマがいたら僕の名前にかっこよさを植え付けられたのだろうか、それともコンプレックスに悶絶苦闘していただろうか。そんなことは知る由もないのだが、僕と出会った人間ぐらいには名前から連想されるidentityなる個性を印象付けたいと願うばかりである。


ところで実際山塚EYヨのセンスは全くもって疑わしいもので、かっこいいと思っても間違っても理解したとは考えづらい。ロックとクラブとSMの融合イベントに出没するくらいなんだから、奇人か、奇人だからこそ不思議だ。本当に、わかったとか理解したとか言い立てて自己消化したと感じる音楽なんて存在しないに違いない。僕は、その地に根付いた習慣的食事のように色んな種類の物をつまんで食って満腹になるのが好き、という感覚で音楽をつまんで暮らしているに過ぎないのである。


最近はというと、腕の調子も段々とよくなってきて早く全開して思う存分やりたいのだけれども何をやらなきゃいけないかをもっともっと考えなくてはいけなくて、だからといって立ち止まっているのが一番陰鬱で、そこらへんのバランスは非常に難しい。という感じで、読書・剣道・治療のようなある意味リズミカルな生活である。本は、カフカを『カフカ寓話集』とともに『変身』を読み、読んでいる途中でホントに吐き気とかそういうあらゆる心的負の要素や柳田邦男『犠牲』での息子の作った文章を読んだときの文章と似たようなものに襲われてせいで苦しかったのだけれども、こういう体験も悪いもんじゃないと思った。安部公房も五冊ぐらい読んだのだけれども、表現の豊かさにゾクゾクするとともにメビウスの輪のような物語の叙述が非常に興味深いもので読んでいる時の酔い衝動のような心地よい気持ち悪さとでも言おうか、そんなものに僕は取り付かれている。


さあ、今日は何をつまもうか。