駄々駄々駄々駄々

怒られるとか叱られるといったことに対して昔とは違った意味で反発してしまうのはなぜなのだろうか。よく世間では「大学生にもなって」なんて言葉を耳にするけれども実際に昔の現実を完全に体験することのなかった人間に、現実味を帯びさせて伝えるためにその方法は実は不適当なのではないか。しかし、世代間を通じた文化交流とした意味では意味をなすように思うのでこういう言い方をされた時にはその時代の風景を勝手に自分なりに創造することに僕はしている。


当たり前のレベルでのズレというものは中々修正できるものではない。当たり前というものは非常に恐ろしいものであって、そのズレというものは時々僕に癇癪を起こさせることも稀ではない。なんでそれが。えーそれが。なんてものもしばしば。人と人との交流が都会化につれて段々と薄くなる傾向にあることを考えると、あーそういう習慣というか思想的なものも多様化していって、それを集団ですり合せるような時間・習慣も減ってしまうし、結構親の責務ってのは非常に重いものであるのだと思う。みんな人間が同じじゃつまらないと思ってしまうし、多様化は苛立ちだとか悲しみだとか、そういう不満を僕にもたらす。それでもやっぱり喜怒哀楽全てを思う存分感じれる分後者の方が僕は人間的で好きなのだと思う。


今日SFCに通う友人が信濃町に来て、一緒に神宮外苑を走ったのだけれども、友人とだらだらと話すことはどんな音楽にもかなわない『音』であるのだと感動してしまった。信濃町というと、何を紹介しろと言われると全くもって困ってしまってキャンパスを少し説明したり、他には実際メーヤウぐらいしかなくて『あーーーんな感じの人たちは大体みんな某コミュニティに属すような人たちだよ』、『何やっているのか具体的に聞いてみたいけれども、それを聞いたらすごい怖い思いもしちゃいそうで嫌だね』みたいな下らない話をしながら僕はニヤニヤとしていた。


それにしても午後の実験がとても非効率だったもんだから、中々の効率主義者である僕は怒らずにはいられなかった。怒って怒って、適当に愚痴とかを吐きまくってたらそれと一緒に怒りも出ていってスッと楽になるもんだから僕はそこらへんが効率主義者なのだと確信した。


夜には『ガイアの夜明け』なんかを就職活動中の姉が見ているもんだから、僕も暇だったから一緒に眺めたのだけれども、『君がうちの採用者第一号です!』なんて満面の笑みで握手を交わすような演出をするものだから疑り深い僕には陳家な番組でしかなくて残念だった。無印のビーズソファーにうずくまる感覚というのは、マシュマロを口の中で磨り潰す感覚に非常に似ていると僕は思う。柔らかくて体にフィットするものはなんでこんなに気持ちがいいのだろうか。これをもう少し改良して、角度とか大きさとかもっと調整して売り出せば売れる、そう考えるだろう僕の友人には何か面白いことをしてもらいたいと思っている。そして、僕は本を読んで限界まで眠気と戦ってそのまま十分な睡眠を取ることが、非常に気持ちいいことだと再確認した。