○○○をした。

授業を出席と小テストで縛り付けるというものは、一体いかがなものなのだろうか。去年の緊迫した教室の授業や、みんなを聞かせて楽しませようとする授業は一体どこへ行ってしまったのだろう。僕はそんな中で今日は柳田邦男『犠牲』を読んだ。後ろにその教室の先生が座っていたものだから、気まずさなんてものを勝手に感じてしまって非常に申し訳ない気持ちであったのだが、少しは僕の我儘をポジティブに解釈してくれていると信じている。


研究機関と教育機関というものが同一なものとして混在する理由は一体何なんだろうか。確かに何かしらすごい研究とかしててその分野で偉大な人に出会えるのは、素晴らしいことで感心したり感動したりすることはなんとなくあるのだけれども、生徒の視点で授業がそれなりに面白く展開されないとーなんだろうなー教養というか、そういう人間的魅力を疑ってしまう僕がいるのだが実際にそれはただの僕の驕りなのだろうか。それでも実際に授業を聞ける人がいて、つまらないと思う人がいて、僕はどっちかというと後者の感情を覚えてしまう。前者の人もつまらないとか考えていて、でもその苦しみに耐えながら必死に理解しようとしていて、実際にその苦しみはその学問に対して楽しみを覚えるためのきっかけに過ぎないのであったならそれは僕の驕りなのかもしれない。昔の僕であったのなら、何でも与えられたものを必死でこなして一生懸命勉強してそれでそれなりに満足感を得たかもしれない。大学に行ってから、何かが変わってしまった。ただ僕が言いたいのは、今日一生懸命本を読んだということだけである。


『犠牲』はというと、柳田邦男の家族のプライベートがかなり公開されていて実際この話を人づてに噂で聞いた程度であったなら、僕はマイナス・・・・ではないけれども決してポジティブな内容には中々解釈することはできなかっただろう。ここまでの衝撃は、本人を通じて言葉によってつむぎだされることによって与えられたものであることには間違いはない。内容は精神を病んだ息子が自分の手で脳死してしまうという重いものであり、その中で作者自身が家族として見た『脳死』を息子の日記などを記しながら描き出し、そして現代社会で問題となっている『脳死』についても言及するというものである。体験者は語るだとか、証言者はこういうだとか・・・・なぜ実体験に基づくものはこれほどリアルな叙述となるのであろうか。こうした嘘に関してはヒトは意外にも見破りやすいのではないかと僕は思っている。実際に読んでいる途中で、息子の日記は非常につらかった。僕の思想教養的にも足りない部分はあったのだがどうしても暗くなってしまう。頭が、世界が、グラグラと揺れて回る気がして読んでて悪寒、とてつもない吐き気が襲ったのは紛れもない事実である。重くてつらい内容だったからこそ、さらに著者の主張は強くなったのかもしれない。単純に著者の感情を元に脳死について考えさせられると同時に、何か重いものを残していく本だった。


その後はというと、午後には村上春樹『村上ラヂオ』を何故か手に取り淡々と読む。実際に一体何が得れたかというとよくわからないが、日常生活に基づいたほわほわっとした観察力が鋭いものを感じさせた。最初の方の話が好きだったのと、ベックとか色んな音楽聴いててなんか嬉しかった。ここでベックとかっていう時に○○とかってのに当てはめる○○って非常に気になるもの。ここで僕がベックを当てはめたことで、非常にベックに対して恥ずかしさを覚えて○○のままにしとけば良かったのではないかと後悔する。こんなことは気にしないか。最近は、よく風呂で大音量で音楽を聴き流らゆったりとする習慣がついてしまった。さあ、風呂に入ってサニーデイサービスでも聞こうか。