ルアーと僕

感情や気持ちを押し殺すというのは、果たしてどこまで体に良いことなのだろう。喜怒哀楽の中で同じものを、同じように毎日強制的に僕が感じさせられたとして、僕の気持ちは一体どこへ飛んでいってしまうのだろうか。意識してやることを繰り返すとそれが習慣として当たり前になるとよくいう。そんな適応能力は便利だけれども、時に恐ろしいのはいうまでもないということである。


僕の家庭は恵まれていると誰かが言う。僕の住んでいる場所、体、心、まわりの環境は恵まれていると誰かが言う。どんな人でも何かしら悩みがあると誰かが言う。勉強ができる人は、それだけ何かをする責任があるとも誰かが言った。そんな責任を僕が心から感じているのなら、よほどの大物かただの勘違いのどっちかでしかないのではないか。人に言われる責任と僕が感じる責任、そのギャップを摘める作業が僕の力になる。それにしても意味もわからず作られたこの環境、理不尽なものに対する僕の怒りはとどまることを知らない。何が理不尽か一つ挙げるとするならばそうしたことを感じる僕の頭なのかもしれないが、この怒りを感じなくなったとき僕は幸せが見えると思っている。


ところで今日読み終わった『罪と罰』で金持ち富豪が、貧乏娘をお金に任せて結婚を迫るシーンがあったのだけれども、実際の恋愛にそうした周りの付加価値が及ぼす場合なんて実際に無限にあるわけであって、何もかも余計な情報を取り去って人間を眺めることができない僕はとても回りに対して懐疑の念を持って孤独に浸ることがある。何かを思うっていうのは思っているのは間違いないと思っているのだけれども、それが擬似餌を食べる魚だとしたらこれほど恐ろしいことはない。しかし実際擬似餌に釣られていたい僕がいることは紛れもない事実だった。それにしても、この物語でラスコーリニコフが最後に見た黄金色に輝く『愛』。ものすごく感動した。