入学式と僕



今日はというと、珍しく朝七時には起床した。入学式の取材ということで仕方なくスーツを着ることにした。スーツは肩幅にあってかっこいいとか、そんなことに昔はあこがれていたのに今では全くそんなことなんかなくて、このぴったし感が自分の動きやあらゆる可能性を減らしているのではないかと恐ろしく窮屈な感覚にしか思えない。ジーンズもそうだ。僕はここ半年以上それを履いてないという。足の押さえつけられる感覚、こんなに気持ち悪いものはない。あらゆる心地よさを研究した服を誰かくれないか。そうだ、ドラえもん君に頼めばいいじゃないか。


日吉に行く電車の中は、なんというのだろう、寝不足のせいかえらい機嫌が悪かった。スーツというと、いつもかぶっているキャップがそりゃーかぶっていたらそれは街の笑いものだからという理由で、ヘッドホンをしたら久しぶりに切ってそれなりにさっぱりしてワックスで一生懸命整えた髪の毛がぺしゃんこになってしまうからという理由で、僕はきまってイヤホンをしようと心に今朝決めた。そんなんだから、電車で聞こえる若い子のピーピーしたしゃべり声やどうしようもない会話がえらく気に障ったのかもしれない。


入学式はというと、会場に着いた途端あー僕って本当に三年になってしまったのだと悲しんだ。でも、実は喜んでたのかもしれない。式を待つ隣隣の新入生たちは、サークルを選ぶ本だとか大学生への期待を最大限に膨らましていたものだから僕はそんな彼らを心の中で嘲笑った。もっと日吉キャンパスで感動を得たかった、そんな僕自身を嘲笑いたかったのかもしれない。塾長先生が、「自分がつまらないとか周りがあまりにもつまらないと思う心配がある人がいるかもしれないけれど、義塾はそんな妙なこだわりはない所だ」なんて自身をもって述べるものだから僕はそれだけで魅せられてしまった。集団とかそういうものは、大きければ大きいほど、それなりのことができるけれど、どうしてもそうなればそうなるほど限界が見えてしまいそうと疑っている僕がいる。そんな僕の疑いは、間違いなのだろうか。最近友人に「自分の居場所に誇りをもてないのはなぜ?」と言われた。僕は、誇れない。誇った瞬間に驕りになる気がしてならない。誇った瞬間に、僕はそこで何かをやめて気がしてしまってならない。僕はそんな天邪鬼である。ところで、隣の新入生カップルが「医学部ってエリートだよね」なんていうものだから僕はすこぶる機嫌が悪くなった。エリートか、なんて聞き心地の悪い言葉なんだ、そんな言葉うんざりだ。それでも、勉強ができる、おっとあえて成績がとれるとでも言おうか。この職業はいかんせん、その要素が入学の時点で加わってくるという現実だ。僕は医者になりたいと心から思っている。思う理由もある。そんな理由が、成績がとれるという現実に作られた可能性があるのだと一瞬でも考えてしまうと、僕はどうしても自己嫌悪を覚えるであった。そういえば、こんな話、高校時代の友人とこの前話して暗くなったばかりではないか。


帰り道で僕は、ニヤニヤとサークルに勧誘する大学生たちに出くわした。僕は昔から若く見られていて、全然大学一年生でもおかしくはないんだなと思うとともに、ふけ顔っていちよ大人に見られる分には特してる風潮があるようなあって数々のさりげない僕への罵倒を思い出し、そんな世間体にやけに腹が立った。昔は腹が立ってたことにだんだんと腹を立てなくなるのは、感情がどこかに吹き飛んでしまったからなのだろうか。それが大人になるということへの一部なら、僕は昔怒ったことに対してノスタルジーを最大限に感じることができるのだからそれはそれでいいもんだと思った。