竹内洋「教養主義の没落―変わりゆくエリート学生文化」




僕は新聞部の取材で、偶然聞いた「教養が足りない」の言葉。一体「教養」とは、そのルーツとすべきものはなんなのか。そして、自分達の今漠然とある学生生活。大人が「今の大学生は読書する習慣がない」と述べるに至った歴史的背景。そして、その背景から作者が導き出す足りないものを提言する本である。


歴史的記述やデータの読み取り、凄まじい文献の数は僕を睡魔へと追いやることが多々あった。しかし、所々で、例えば「学生の読む種類の雑誌の変化」など興味深いものを見せられ僕は驚きを隠せずにいた。さらに、最終章でデータ分析のようなものから突然大衆主義の批判的主張への移行は非常に力強いものとなっている。エリート学生による「教養」からサラリーマン文化への適応であるとされる「キョウヨウ」へ。昔は、


『「キョウヨウ」は、高踏的ではないが、軋轢を避け、円滑な人間関係を目指したものであるから、世間並と普通にすりよっているだけとはいえないだろうか。そう、ちょうど教室でいじめにあわないために、クラスの最大公約数文化に同調するように。』


これほど響く言葉はない。確かに現代に対応する上で「キョウヨウ」は欠かせないのかもしれない。さらに、「教養」と「キョウヨウ」での文化的不足(自省・超越の不足)について作者は言及する。しかし、作者も印刷媒体で花が開いた大正教養主義の敗北を確かに認めるとともに、だからこそ教養のあり方について原点から考えなければならないとして結んでいる。決して、今の時代に大正時代の教養を押し付けるなんてことは無意味であると作者は考えている。しかし、教養は自分が思っていたような無意味なものではない。では、今の自分達は一体何をすればいいのか。それは各々各自で導き出す答えがあるだろう。


僕はこの本に洗脳されたわけではないが、もっと色々な本を読んでみようと思う。「一般常識や一般経験を人間形成の道筋と考えている今の学生」との記述がある。僕はそこに今一歩、違う道筋を導入してみたいのだ。それなら単純に一般常識・一般経験・読書、みんな思い切ってやってみようじゃないか。僕は時代というものが、常に不足しているものを、何かによって失われたものを、違う形ではあるが求めていると思う。実は非常に面白い本だった。