無題



いまさらだが、カーリング本橋麻里は可愛いと思う。テレビであんなポーズをぶちかましてくれたものだから、全くもって印象に残るものである。それにしても余計な情報は決して知るものではない。それでも人間は知りたがる。そして、その後悔に浸るとともに行動を憾みその中に快感を求めることもある。


今日僕は、新聞部の取材として卒業式に参加した。近くに座っていた奴らが式辞の話途中に、しょーもないことを連呼するようなものだから、当然のように僕はこいつらが社会人として不安になった。僕自身の話としては入学式の時しっかりと話を聞いていただろうかなんてことさえも覚えていない。自分が必死に取材でメモっているという心的負荷要素を除いても、今なら昔より大人の話を聞ける、何故だかそんなことが思い浮かんだ。


さらに、最近の僕と言えば本当に色々な本が読みたい。大人が『将来そのうち嫌というほど本が読みたくなる』という感覚はまさにこれだったのか。医学と関係あってもなくてもいい。僕はこの一年間で、一体どれだけつまらない人間になってしまっただろうか。医学は面白い。面白い。それでも、未だに僕の何か人間性への物足りなさ。こんなにモヤモヤするのは何故だろう。もっともっと色んなものを知って、色んなものを考えて、色んなもの感情を味わって、色んな世界を知りたい。僕はスケールが小さい人間なのはわかっている。


それにしても卒業式という物事は時間の経過を本当に感じさせてしまう。上の先輩方との年齢的距離は縮まることはないが、部活から消えてしまうとどこか遠くの世界に行ってしまったようで悲しくて悲しくて仕方が無くなる。おめでたくて喜ばしいけれど悲しいなんていう感情は、喜びと悲しみが二者択一的な感情でないことを感じさせる。


今年卒業してしまう先輩方は、本当に素晴らしかった、すごかった。まさしくその姿は、僕が中学一年時に見た二個上の先輩達と同じであった。自分たちが入った時の幹部というものは、そういう偉大なものになりやすいのかもしれない。そんな先入観があろうがなかろうが、先輩方の何事に対しても真摯な真っ直ぐな姿勢、大きな背中は今の僕の目に焼きついている。感謝の気持ちをここにひっそりと記したい。本当にありがとうございました。


人間の怒りというのは不思議なものだ。同じ内容のことであるのに、違う人に言われると怒りを覚えてしまうのだから。そういった意味では、メールなど文字伝達というのは怒りを与えない、つまりは伝える側も怒らせる心配のない、円滑なコミュニケーションであるのかもれない。もちろん、その先に待つのはつまらない感情が欠けた世界なのだろうかもしれないが。みんな卑怯だ、僕も卑怯だ。


あの人は、ある人は、誰もができるようなことを、ほんの小さなことを、どこかで妥協していると疑っている最低な自分がいる。そんな風に見ている、客観している自分がいる。そんな自分は消さなければならない。そんな人を指摘している自分が一番妥協しているのだ。それがわかっているからさらにストレスがたまって自己嫌悪になる。わかっている。わかっている。今の僕が必死に目標設定して、一所懸命にならないことはわかりつつあるんだ。


とりあえず今は剣道がしたい。僕の心の隙間を埋めてくれ。