カカシは笑う



土曜日には、田舎のばあちゃんやおじさんやらが来てばあちゃんの喜寿祝が行われた。はずだったのだが仏滅だということで日曜日に移動になり、自分はスキーなのでお祝いの言葉を与えた。いまさら仏滅なんてコダワルナヨと一瞬思ったのだけれども、ばあちゃんの思想にしたがって満足させてあげることの方が十分イイコトだとすぐに自分を納得させた。


前前日の夜から日帰りスキーに行ってきた。後ろのどことしたぬやつらがうるさくて夜バスは居心地が悪かった。なのであまり眠ることができなかった。「この曲本当にいいんだよ」と聞かせようとした男が、「オレ疲れてるからいいや」と一蹴された瞬間だけが心に残った。


後輩は礼儀正しくて、実にいい後輩を持ったと思う。スキーは濃霧が立ちのぼっていて怖さ倍増、消えたと思ったら全くの雨に打たれまくりずぶぬれまくりの悲劇場であったのだけれども温泉につかれたのですべての疲れがふっとんだ。充実した土日だった。


今朝目覚めると、コミュニケーション治安が乱れていると苦情があるとメーリスが流れていて自分たちの学校コミュニケーションメーリスは「友好を深めるため」ではなく「学業をするため」の存在でしかないことがはっきりと現実に示されて自分は悲しみと怒りが交えたのか、いささか不機嫌になった。自分の「友好を深めるため」なんて本当に思っていた勘違いは、周りの人から見ればそれはただの偽善だったのかもしれない。きっと偽善だ。仲良い特定がいる自分は立派な偽善者だ。


友人が言ってた様に他の学部との戦争でも起これば、こんなこともなくなるのだろうか


しかし、100人が何か共通のコミュニティーとして共感する部分があるのならばそのコミュニティーが見た感じに想像以上にうまく付き合えるのも事実だ。自然に分かれる少数部隊、それはまるで民族のようだ。


それらの民族が自然に形成した国家ならば、集団として支障をきたすことは中々ない。時に強固な権力によって、少数であっても強引にアル決まりで定められた国家の枠組みにはめられた民族とも呼べないヒトの集団は、馴れ合いを求めるが時に大きな支障をきたす。それをヒトは紛争と呼ぶ。そんな光景を自分は観た。誰も悪くない。誰も間違ってなんかいないはずだ。


世界の人口全部が何かでつながればいい。自分は、孤高の偽善者でかまわない。ワレ問う『誰かを特別化した時点で、他の者たちを特別から除外化するという二つのコミュニティー形成という人間のコミュニケーションジレンマはどうやったら無くすことができるのだろうか。』と。