生きる

「それは価値観の違いとしか言いようがなかったんだ。」


その友人Aの発言を聞いて僕は少なからずドキッとした。それは彼女Bが喧嘩した時に勢いで出すような言葉だったからである。重みはもちろん、違うのだけれども、それは‘絶縁’という言葉につながり、そういえば僕にもそういう類の良く分からなかったり、到底理解できなかった別れを押し付けたり押し付けられた経験があったに違いないだろうと、口の中にある糖衣に包まれていない正露丸を間違って歯でギシギシと磨り潰してしまったような、そんな苦味が広がってしまったのだった。大学生になって、昔より短気ではなくなった、どこかそう思う。それと同時に、周りに寛容にどこかなりすぎてしまっていて、エゴの追求という意味では離れてしまったのかもしれない。それでも、コミュニケーションの楽しさは減るどころか増すばかりであるのがまた不思議なところであるのかもしれない。


今日は友人らと銭湯に行って、それからファミレスに行って勉強した。就職活動一つに対しても、先日と飲み会と合わせて6人くらいの話を聴いたのだけれども、本当に考え方が多様ヒトってのは面白い。でも本当に、どれが悪いとかどれが良いとか、そういう問題ではなくって、自信を持って悔いのないようにやれるのがいいのだと思う。と僕は蚊帳の外にいるのだから、言いたいように言えてしまう。僕自身が戦争に行かない、被害にあわないと考えるならば、どれだけ考え方が変わってしまうだろう、結局は世界の中心は僕なのかもしれない。いや僕だ!そんなことをほんの少し塩素の匂いがするお湯の中で考えながら、スタバの店員や、新しい事業に妄想を膨らませて笑っていた。


それにしても、僕は文字や漢字に対してえらく愚鈍だ。恥ずかしい読み方をしてしまったり、こう読むはずなのに、言うはずなのに何故かポロリっと間違えてしまう。そんなことを振り返ると本当に恥ずかしい。漢字検定でもDSを使って勉強してみようかと思った。


帰りに友人Cと、仕事やらお金やらを得て将来どうなるんだろうね、なんて話をしていたら非常に憂鬱な気分になった。そして行き着く先の死というものについて、ベッドで考えていたら泣き出してしまった。それは怖さとか悲しさとか、そういった類のものでは決してなくて、今までの人生で見せた涙とは違うものだと思う。
とにかく、僕は科学的な部分よりも人間的な部分でヒトと関われたらいい。
喜怒哀楽溢れて生きるのがいい。