自分が決して忘れてはいけないこと。

 やあ、こんばんわ。二日間、ほぼ引きこもって神解の勉強してた。いきなり、整形の剣道部の先輩から電話が来て大学病院で手を見てもらえることになった。そんで、結構靭帯はつながってきてて順調だそうで、しっかりテーピングして剣道やれば手術は免れるみたい。。。。なんとか一安心。

 いやーそれにしてもホントに、医者の世界とか専門家の世界とか広いようなもんで、実はすごい狭い。何科にしても、中々今の時代細分化が進んでこの先生は「何科のどこが得意」とか結構分野によってはあるわけだ。そんで、こういきなりそういう評判とか世間的評価とか、「自分は何が得意ですよ」とかいう保証は、ただの一般ピーポーには全く縁のない話であって、そんで全く、その医者の得意分野とかをはずしてしまい、やや乱雑に扱われたりしてその医者に対して不信感をもってしまうなんてのはよくある話なんだなって思った。

 医者から見たら患者はその数多く来る中の一人でしかなくて、自分の得意な分野で他の人ができないことを平気でやってのける「プロ」だったとしても、やっぱり患者からしたら、どんなに他の人にすんごいことをしているのかもしれないのだろうけど、問題なのは自分に対して「利益になったかならなかったか」という主観そのもので医者に対する価値というものが決まってしまうわけなのであって、ココにはとても「誤解」がおきやすいだろう。

 そう、自分は今日、そんな誤解を体験した。自分は医学部生で他の人に比べれば十分なほど「医療関係者」に対する関わりの距離ってものがすんごい近いからこそ、たまたまその誤解は色々先輩に言われて解けたわけで今日は前にすんごい馬鹿にしてた先生に対してすんごい申し訳ない気持ちになった。でも、ホントに自分がそこらの一般ピープルだったらずっとその先生に対してすんごい不信感もって、その病院とか二度と行きたくないって思っても仕方ないんじゃないのかな。極端な人だと医者嫌いになっても仕方ないんじゃないかな。そう思う。そして、自分はそういう患者をできるだけ出したくない。みんなそういう思いってしたくないでしょ??

 今の現代の医学で、専門性とかそういうのが高まってって進歩していくのはホントにすんごいことだと思う。でも、そうなればそうなるほど情報の「非対称性」とか多くなる。無知って恐ろしい。なんとか、少しでもそういう情報の非対象性って埋められないのかな。メディアにこんなにインターネットが転がってても、自分の病気はそこまでいい方法が見つけられなかった。なんらかのデータバンクがあるだけで、ホントに違うんだろうな。

 そういえば、自分の首の痛みにはなにやらツムラ漢方薬17番が効くみたい。でもあれよ、こんなちっぽけだけどすんごい自分にとって重要な情報を診断してくれた整形外科の先生は「たまたま」知らなかったのか教えてくれなかったわけで、その情報を入手するまでに半年以上かかってしまったのよ。あー馬鹿馬鹿しい。

 まあ、実際そうするつもりなんか医者側からしたら毛頭ないんだろうけど、自分は「西洋医学」には見捨てられた的な扱いや印象をすんごい受けてしまったわけで、それがすんごい偶然だったのかもしれないのだけれども、患者(自分)自身にとっては必然でしかないわけであって、すんごいモヤモヤして、何か憤りを覚えざるえないのだ。それで、少し危険があるけど自分は藁をも掴む思いで整体に行ったわけだ。いくら、整体が「怪しい」と思っていても、そんな怪しさでも、もしその整体師のせいで、なんかしら障害が起こったとしても、自分は納得できるだろう。正直、「何が正しい」なんてホントにわからない。医療って、何が怪しいか何が正しいかもわからない。どういう医学に頼ろうが、それはある意味宗教的な、側面を持つ。

 でも患者にとっては、自分は一人しかいなくて、自分の苦しみとかつらさとかがホントにただなくなってくれればいいと思っているのだ。少なくとも自分はそう。どんな山登りの過程を得たとしても「頂上」という一つのゴールに登れればいいのだ。

 医者にとって、患者は多数の中の一人。でも患者にとっては存在は自分一人だけ。これだけだ忘れたくない。